2012年4月アーカイブ

命のかけ橋 「千畝とビザ」

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 第二次世界大戦下のリトアニアにおいて、日本への通過ビザ発給により約6千人ものユダヤ人の尊い命をナチスドイツの迫害から救った元外交官、杉原千畝(ちうね)をご存じですか?

 杉原千畝は1900年岐阜県加茂郡八百津町に生まれ、ごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。小さい頃からおとなしくて優しい子どもでしたが、一度自分で決めたことは、必ずやり遂げるという精神的な強さも持っていました。英語が得意だったこともあって外務省派遣の留学生となり、中国のハルピンでロシア語を学びました。やがて外務省に入省し、省内一のロシア通といわれるようになりました。その後リトアニアの領事代理在任中の1939年、第二次世界大戦開戦となりました。

 当時ドイツ軍は快進撃を続け、ポーランド侵攻そしてリトアニアを占領しました。ポーランドに住んでいたユダヤ人は、ヒトラーの迫害を逃れ日本を通過して海外に逃げるため、領事代理である杉原にビザの発給を懇願し、いつのまにか領事館をとりまく人々の数は千人を超えていました。同じ頃日独伊三国同盟を目指す方針の下、杉原からビザ発給の打診を受けた日本の外務省の答えはもちろん“NO”です。外交官である杉原は深く悩み苦しみました。本国の命令に従って外交官として自分の輝かしい道を守るべきか、ビザを発給してユダヤ人の命を救うべきか…。

 

 そしてついに杉原は決断します。時は、1940年でした。「国の方針がどうであろうと、私は人間として、この人たちを見放すことはできない。」決断した杉原は突き進みました。得意のロシア語を活かしてリトアニアのソ連領事に話をつけ、日本に行くユダヤ人たちのソ連通過の許可を取りました。そして日本の通過ビザの発給を始めます。外務省からは、リトアニアのソ連への併合に伴い領事館を閉鎖してドイツの大使館へ移るよう新しい指令が届きます。それでも杉原は来る日も来る日も朝から晩までビザを書き続けました。指は疲れ、腕も疲れ、睡眠不足で頭が朦朧とする中、体力・精神力の限界まで書き続けました。その数は二千枚以上にも及びました。

 

 1945年に終戦を迎えましたが、戦後日本に引き上げた杉原を待っていたのは、本国の命令に背いてビザを発給したことによる外務省退職勧告でした。「私は、ヒトラーと違って、たとえ少しでもユダヤ人を助けた」ことを誇りに感じながら杉原は潔く外務省を去りました。

 

 二十数年の歳月が過ぎ去った1968年に、一人のイスラエル政府経済参事官が杉原の許を訪ねます。誰だか思い当たらない杉原にその参事官は、一枚の古びた紙を見せました。それはかつて杉原が発給したビザだったのです。「ミスター・スギハラ、イスラエルではいまでも何千人という人が、これを宝物にして、大事に持っていますよ。」杉原の発給したビザのお陰で日本を目指したユダヤ人は6千人にも上りました。着の身着のまま逃れてきたユダヤ人に日本人は優しく接したといいます。多くの人はその後上海に渡り、祖国の再建を目指してパレスチナへ、自由を求めてアメリカへと渡っていきました。

 

 1985年イスラエル政府は、多くのユダヤ人の命を救った功績を称えて「諸国民の中の正義の人」として杉原を表彰しました。杉原千畝は、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行ったのです。

 

 日本への通過ビザを発給した1940年からイスラエル政府経済参事官が杉原の許を訪ねた1968年までの28年間、杉原千畝の記録は、外務省から抹消されていたそうです。つまり、イスラエル政府が動かなければ、彼の功績は永久に抹殺されていたのです。華々しい外交官としての道を捨て、人命を救う道を選択することは、まさに“言うは易く行うは難し”の選択です。

 

(この記事は岐阜県加茂郡八百津町 杉原千畝記念館の資料を下に作成しました)

 

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