信仰について

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ジョージ・ケナンの「20世紀を生きて(原題:Around the Gragged Hill)」を読みました。最近読んだ本では、最も難解な本のひとつでした。

その本の第2章「信仰」は、個人的に興味ある内容でした。理解を整理する目的から読書ノートとして、その章の超要約を作りました。

その内容は下記の通りです。ご一読ください。

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我々の住む宇宙は、ビッグバンによって出来たと言われている。そこで生じる大きな疑問がある。「それではビッグバンは自然発生的に起きたのであろうか?」私は、そうではないと考える!人智を超えた力によってビッグバンは発生したと考える。

次に、我々自身について考えてみる。人間についてである。人間の特質には二面性がある。「動物としての人間」と「獣とは異なる動物である人間」の二つである。後者が特に重要である。「獣とは異なる動物である」とは、人間だけに"魂"が宿っていることを意味する。獣になくて人間だけに"魂"が宿っていることは事実である。「では、何故?」私は次のように考える!人智を超えた力によって、人間に"魂"は植えつけられたのだ。当に奇跡である。

人智を超えた力が"神"である。

我々は神を見ることは出来ないかも知れないが、感じることは出来る。それは、心に宿る"魂"からの語りかけからである。不思議なことであるが、"魂"は、個人を特徴づける人間性を問うてくるし、自我の目覚めもさせてくれるし、そして、他者への思いやりを醸成させてくれる。神が愛と気配りを与えてくれたのである。

次に、人が信仰を必要とする点について述べよう!人間の持つ二面性(「動物としての人間⇒本能」と「獣とは異なる動物である人間⇒理性」)から生じる葛藤、人間の不完全性(人智を超えた力を備えていない)から、個人では耐えられない状況に陥ることがある。そのような時、信仰の助け以外に解決の途はないからである。

信仰の助けとは、全能の神の力を得ることでなく、愛しみの神の力を得ることである。あなたが神の助けを必要とし、あなたが最善の努力をする範囲内で神の助けはある。神がどこまで役に立てるかを決めるのは、あなたがどれだけ努力するかにかかっている。大事なことは、あなたが持ちえない力を神は持っている。その力は、あなたの努力に対して与えられるであろう。

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村田先生  ジョージ・ケナン「信仰について」の「超要約」をご提供頂きまして、有難うございます。大変分かり易く纏めて頂いているために、信仰心の無い小生(神社・仏閣では敬虔な気持ちでお願いやお祈りをしてはいるのですが。)にも、信仰とはこういうものなのか、と改めて考える機会となり、また、新たな発見もありました。以下の感想を持ちましたので、駄文で申し訳ありませんが、紹介させて頂きます。
Ⅰ.ケナン「信仰について」の非論理性・非科学性
   学校や企業の中で論理的思考を心掛けて来た小生にして見ると、ケナンの論理展開は不自然なものに感じられ、やはり宗教と科学は相容れないということかな、と思いました。
(1)ビッグバンは自然発生的に起きたのか?――ケナンは『人智を超えた力』によって発生したと考えます。
そもそも「人智」とは何か?自然の一部である人間が進化によって獲得してきた人間の脳が産み出すものではないか?ビッグバンという概念自体、現段階で人類が辿り着いた自然に関する科学的知見です。つまり、「人智」なるものは、人類がこれからも進化・発展し、自然や社会に関する真理を究めて行くことで獲得し、豊かにして行くものではないか?そう考えれば、自然(自然発生的に起きたもの)が先にあって、「人智」が追いかけるという順番です。つまり自然は常に「人智を超えた力」ですから、ケナンは自然以外にも「人智を超えた力」が在るのか否かを先ず問い、あるとすれば、それを論証する必要があります。在ることを論証できなければ、「人智を超えた力」は「自然」ということになります。しかし、ケナンは何の論証もなしに「人智を超えた力=神」の存在を主張したと思われます。小生は、自然が先にあった(ビッグバンは自然発生的に起きた)と考えますし、その謎はこれからも理論物理学などにより解明されてゆくものと思っています。
(2)次に、人間の本質には「動物としての人間」と「獣とは異なる動物である人間」の二面性があり、動物には無い『魂』が人間にだけ宿っているのは、何故か?――ケナンは「人智を超えた力=神」による「奇跡」で人間に植え付けられたと考えます。
 人間の本質に二面性があるという捉え方は、何となく理解できるような気がします。何故ならば、自然の一部である動物が人間へと進化・発展する中で、本質を変化させて行くものの、動物としての生命維持機能(食物獲得~摂取~排泄、等)は、その形態を変えることがあっても、本質的に変わらないと思われるからです。
 次に『魂』とは、何でしょうか?動物の肉体に宿って心の働きを司るもの、あるいは精神と理解すれば、人間にだけ宿っていると考える根拠は、何か?ケナンはここでも論証なしに人間にだけ宿るものとして、論を進めています。しかし、どんな動物にも『魂』はあると思われます。人間同士でもなかなか心の動きが読めないように、人間には未だ他の動物の心の働きを読む能力が不足しているということではないか?小生はペットを飼ったことが無いのですが、飼ったことのある方はそう感じているのではないかと思われます。日本には、「一寸の虫にも五分の魂」の諺がありますし、動物の言葉が解る人の物語もあったりするのです。人間の心理については科学的探究が進んでいますが、将来は動物の『魂』の科学的探究も進むのではないでしょうか。(安倍政権下、日本では人文科学は役立たずとして大学の学問研究から除外されようとしていますが・・・。)仮に、人間にだけ『魂』が宿らされたということにして、それは、何故か?ケナンは論証できないからだと思いますが、神の『奇跡』によるものと考えます。小生は、どんな動物にも『魂』はあると思っていますし、そうすると『奇跡』を持ち出すことも要りません。そもそも、『魂』もやはり『人智』同様に、人間(動物)が進化する中で身に付けたものと考えるのが自然ではないでしょうか。
(3)『神』は在るか?――ケナンは「見ることは出来ないかも知れないが、感じることは出来る。」と答えます。
ここで「感じること」とは、脳の働きのようです。そうすると、人間の心に宿る『魂』を通じて神が語りかけてくるという仕組みは、なかなか良くできていると思います。これは、家族や友人と相談する如くに心の中で『神』と語り合える回路を自己の脳の中に埋め込むということですね。この回路は僧職者の導きを得てさらに増強されてゆくでしょう。自ら考えて行う善行も悪行(懺悔すれば許されます)も信仰・宗教と結び付けられた形で自己の経験として脳に集積されてゆくでしょう。従って、小生は、神は在るという人にとっては、神は在り、無いという人にあっては、神は無い、というのが現実であろうと考えます。また、宗教を考える場合に大事な点が正にここにあると思うのです。マインド・コントロールの仕組みがここにあるからです。これは、小生にとって新たな発見でした。
これまでの所で、『神』は人間が創り出してきたものだということを確認できると思います。
(4)更に、人間の本質の二面性の葛藤などを解決する途はあるか?――ケナンは信仰の助け以外にないと考えます。
 人間の本質・「(獣と同じ)動物としての人間⇒本能」と「獣とは異なる動物である人間⇒理性」から来る葛藤とは、何か判りませんが、ある時代・社会の中で生じる個人的な夢や希望と実態の乖離から生じるものと想定しておきましょう。この様な葛藤があるとして、この解決の途を人それぞれが探すでしょう。しかし、見つからなかったら、如何するか?ケナンは信仰の助け以外にないと考えます。小生は、次のように考えます。信仰の助けを求めない人なら、如何するか?科学的・理性的に対処する途を採るでしょう。あるいは解決策が無ければ、大概は諦めるでしょう。
「信仰の助け」以外にないと断定することは正しくありません。そして、信仰に頼らない方がパフォーマンスは好いはずです。信仰に取られる時間を解決策検討に割くことが出来るからです。そして、その経験がその人の脳に蓄積され、問題解決能力として集積されてゆくからです。一方、「信仰の助け」に頼ることは、「理性」を眠りこませる役割を果たすと思われます。
(5)信仰の助けによって神が役立つのはどの程度か?――ケナンは自分の最善の努力の範囲内であろうと考えます。
 上記(4)で小生は「諦める」という途もあると指摘しました。ケナンは神が役立つのも「自分の最善の努力の範囲内」でしかない、としていますから、最善を尽くして後は諦める(「最善を尽くし、天命を待つ」)のと結果は変らないのです。神に頼らず、自らさらに解決に挑めば、もっと好い結果が出るかも知れません。ところで、何故、神は「自分の最善の努力の範囲内」でしか報いてくれないのか?それは、「人智を超えた力」を持つはずの神に対する「免罪符」を作らないと、神の存在を疑われてしまうからではないのか?つまり、神の存在はそもそも無いのです。そこで、宗教は、無い神があたかも在るかのように扮装し、そのために『奇跡』を持ち出したり、『感じることが出来る』として、自らの脳に神との対話回路を作らせます。しかし、神の役立ちが無ければ、その『幻想』は破れます。従って、常に神が役立つことを証明できる仕組みが必要です。そのためには、本人の努力に応じた報いが用意されることになります。そうすれば、全能の神が役に立たなかった時には、本人の努力が足りなかったのだという言訳が可能になるからです。神との契約書における「免責事項」のようなものですね。小生が高校生の時に学び、座右の銘とした英語の諺「天は自ら助くる者を助く」というのが、このような意味を持っていることに、今度初めて気が付きました。
Ⅱ.ケナン「信仰について」から見る宗教の功罪
 ケナン「信仰について」(超要約)を拝読し、宗教について日頃感じていたことが、大分整理できたように思いました。信仰あるいは宗教に関して、幾つかの点について述べてみます。
 1.信仰の有用性
   人類は、社会的規範・道徳・倫理を指し示めし、超能力でもってこれを体現する存在として、神や救世主や預言者を創り出したのではないでしょうか。ケナンが規定する人間の本質のうち「獣とは異なる動物である人間=理性」を高めるために理想像を追求すること、そのために最善の努力をすることにおいて、信仰あるいは宗教は、有用な役割を果たすことができるし、果たしてきた面もあると小生は考えます。それゆえ、社会の進歩をめざす平和運動、女性の地位向上や慈善活動に取り組む宗教団体も見られるのだと思います。これらは、個人にとっても、社会にとっても有用な面であると思われます。
 2.信仰の有害性
   一方で、信仰あるいは宗教が無ければ、人間が理想に向かって最善の努力をしないかというと、そうではないと思います。例えば、職場の内外に見つけた優れた人、あるいは優れたスポーツ選手を目標に努力することなどは、日常的に行われていることです。既に延べたように、科学的・理性的に問題解決に当たるには、信仰や宗教は時間的な無駄を生じます。特に宗教という形を採れば、社会的に僧職者を養い、寺院の建設なども必要になりますから、時間や労力、富の浪費が生じると思います。(現時点では、歴史遺産として人類の歴史を振り返ることに活用されることは好いことです。)また、問題解決に当たって、神の助けが必要でないことを受け容れられない僧職者たちは、問題解決への妨害者の立場に立つでしょう。例えば、米国において「進化論」が教育から排除されていると聞きますが、これも、その例のように感じられます。また、宗教間の対立や植民地支配と侵略戦争に協力した宗教団体見られますが、これらは、社会にとって有害だと小生は考えます。
 3.信仰の危険性
  (1)選民思想の原点  ケナンの「神による『奇跡』で『魂』が人間だけに植え付けられた」という考えは、小生には、自然の中での「人間中心主義」および人類の中での「選民思想」を内包しているように感じられます。自然と人間を切り離す世界観からは、人間は自然を支配し、収奪するのが当然(容認される)という考えに至ります。同時に神から『選ばれた者』はそれ以外の人々を人間と看做さず排斥したり、支配するのも当然(容認される)という考えに至ります。「真の宗教(プロテスタンティズム)をひろめる」として、アメリカ大陸で繰り広げられた原住民の虐殺、黒人奴隷の使役などは、他の宗教・他の人種は認めない狂信的な信仰と結びついたものだと思います。これが、現在のイスラム教徒への対応にも表れているように思えるのです。
  (2)マインド・コントロールの仕組み  ケナンの「神は感じることは出来る」の節から、小生は「神との対話回路」を自己の脳の中に埋め込むことによって初めて「神の存在」が現実のものになる、と気が付きました。しかし、これは必ずしも「神」である必要はありません。例えば、オーム真理教の尊師様であっても構わないのです。自身が脳の中に埋め込んだ回路によって、自問自答することが、神との対話あるいは尊師様との対話あるかのような錯覚を産み出します。そして、神、尊師様、あるいはその教義が絶対的なものと意識されれば、それに従うことが義務であり、正義であり、喜びにさえ転換(倒錯)されるのです。この仕組みこそ、金銭目的の似非宗教にも共通するものではないかと小生には思われました。この様な呪縛から逃れる途は、もう既に自明のことではないでしょうか。(「我思う。故に、我あり。」)
Ⅲ.ケナンと信仰について
   『オリバーストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(早川書房)の記述に依拠して、小生なりに感じたことを以下に述べます。
ケナンは「共産党のイデオロギーとソ連の行動は、ソ連指導者の究極的な目標が世界制覇であることを如実に示している」と分析し、「ソ連が世界制覇を狙っていると強調し、ソ連の粉砕とアメリカの覇権の維持を目標に据えて、ソ連の膨張に対する『封じ込め』計画を提示した」ということですが、その後、「スターリンには、・・・世界支配を目指す意思もなければ、その手段もない」、「われわれが政策や公式声明で軍事色を強め過ぎたことが、アメリカは戦争を企てているとモスクワが考える一因となっている」と主張し、「水素爆弾の開発に猛反対する人々のひとり」として、「ソ連が核兵器の包括的な制限協定を結ぶ用意ができていると考え、むしろその道を進むよう…進言した」ということです。ケナンは「その後、自分の言葉がソ連に対する軍事的対応の根拠として解釈されたことを長く悩むことになった」また、「アメリカの政策がますます軍国主義の色を強めていくことに嫌気がさし」「国務省政策企画室長の職を退いてしまった」ということです。要するに、ケナンは、誤った情勢認識により、愛国心の熱病に浮かされたかのようにソ連の『封じ込め』を提案し、「冷戦」をもたらしたことについて、後々悩んだ人であるようです。(「覆水盆に返らず」)
 小生は、ケナン「信仰について」と同様の非論理的あるいは非科学的思考が、情勢分析を誤らせたのではないかと感じました。本来なら「共産党のイデオロギー」という色眼鏡を通して観察するのではなく、あくまでも「ソ連の状況」と「ソ連の行動」(指導者の言動を含めて)から分析すべきでした。そうすれば、「世界支配を目指す意思もなければ、その手段もない」という後日主張した結論は、容易に得ることができただろうと思われるからです。つまり、「信仰について」において見られたケナンの弱点、すなわち、「物事をあるがままに見よ」=科学的精神の欠如が、ここでも表れていると感じられます。

神さまの愛は交換条件ではないと思います。

平野さん、ジョージ・ケナンはソ連「封じ込め政策の主唱者です。
この本は11章に分かれて構成されています。平野さんの指摘するスピリチュアルな部分は、第1章と第2章だけです。第3章以降は、アメリカ政府、米国の政治についていろいろな角度から議論しています。

ジョージ・ケナンはどういう経歴の人ですか?あの有名なケナンですかね?
この本はスピリチュアルの本のようにおもいますが。

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