2016年3月アーカイブ

小説「天下人の茶」を読んで

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ブログ記事の番外編として、杜 祐祠さんの最近の京都旅行のコラム記事(3回)を掲載しました。今回は、杜さんから時代小説「天下人の茶」(著:伊東潤)の書評が届きましたのでシェアーさせてもらいます。

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書評「天下人の茶」を書く契機となったのは、今回の旅で大徳寺が千利休の切腹に大きく関わっていることを知ったからでした。帰京して、友人から勧められた小説「天下人の茶」(著:伊東潤)を読んだら、奇しくも、知りたいと思っていた千利休切腹の真相に近づくことが出来ました。

「天下人の茶」は、1582年の"本能寺の変"から1598年に豊臣秀吉が62歳の生涯を終えるまでを時代背景にして書かれています。それから、この小説で欠くことが出来ない人物、千利休が秀吉の命により切腹した年は1591年でした。この小説は、1598年に豊臣秀吉が62歳の生涯を終えるまで続きます。この小説では、千利休の生死は重要ではありません。死んでも千利休は、傀儡師(くぐつし=黒幕)として大きな存在になっています。

千利休の弟子でもある武将、牧村兵部(まきむらひょうぶ)、瀬田掃部(さたかもん)、古田織部(ふるたおりべ)、細川忠興(ほそかわただおき)それぞれ各人の茶の湯への関わり方を綴ったものです。

この小説の面白いところは、各武将の話を通して武将ではなく秀吉の人となり、千利休の人となりが鮮明に写しだされてくることです。その描写の中から、何故、秀吉は千利休に切腹を命じたのかという重要なテーマの答えを著者は出しています。

出版社のキャッチ・コピーを引用します。

【現世の天下人となった秀吉、茶の湯によって人々の心の内を支配した千利休。
果たして勝者はどちらなのか。そして、利休の死の真相は。
細川忠興、牧村兵部、古田織部、瀬田掃部ら、千利休を継ぐ弟子たちを通し、二人の相克と天下人の内奥が鮮やかに浮かび上がる。
今もっとも勢いある作家が写しだす、戦国を生きる人間たちの覚悟と懊悩、その美しさ。卓抜したストーリーテーリングで読ませる傑作長編!】

このキャッチ・コピーは良く出来ています。

文責:杜 祐祠

杜 祐祠さんの京都旅行(第3回)

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銀閣寺と高台寺を旅して

ブログ記事の番外編として、杜 祐祠さんの最近の京都旅行のコラム記事(3回)を掲載します。今回はその最終回です。ご一読ください。

今日も2月末にしては暖かい日、市バスで南禅寺に向かいました。南禅寺の三門は、かの石川五右衛門が三門からの景色を愛でて言った名台詞「絶景かな、絶景かな」で有名です。確かに大きな三門でした。それから、哲学の道を歩いて、銀閣寺に向かいました。途中、甘味処で食べたぜんざいは、歩き疲れたことから、エネルギーを身体も欲しているんでしょう。非常の美味しかったです。

銀閣寺は、金閣寺と異なりきらびやかなところがなく、落ち着いた雰囲気でわびさび(侘・寂)が感じられました。特に白砂を巧みに利用して作った富士山型の向月台と白砂の波紋の織りなすコントラストには魅了されてしまいました。銀閣寺のパンフレットから引用します。「銀閣寺の正名は東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。銀閣寺は室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。」

銀閣寺は心を癒してくれる場所です。

銀閣寺を後にして、高台寺に向かいました。豊臣秀吉没後、その菩提を弔うため秀吉の正妻(北の政所)「ねね」が開創した寺で、彼女はここに住んでいたそうです。そして、霊屋(おたまや)には「ねね」が安置されているそうです。

高台寺から清水寺までに参道は、産寧坂と呼ばれています。「ねね」が子供の誕生を念じて(産・念)坂をあがり清水寺にお参りしていたことからその名前がついたと言われています。

大徳寺で聴いた秀吉と千利休の話(ブログ記事番外編第2回をご参照ください)、そして、秀吉とねねの話を耳にすると、今回の旅の前には想像もしていなかった秀吉という人物が私の意識の中に急に現れてきました。非日常の経験って意外な展開をもたらしますね。

今日は、南禅寺から哲学の道、銀閣寺、高台寺、二寧坂まで歩きました。高台寺から産寧坂を下ったところに二寧坂があります。二寧坂、産寧坂にはたくさんの土産屋が並んでいました。それら土産屋をひやかしてから、京都駅にタクシーで戻り、2泊3日の旅は終了しました。

杜 祐祠さんの京都旅行(第2回)

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大徳寺を旅して

ブログ記事の番外編として、杜 祐祠さんの最近の京都旅行のコラム記事(連載3回)を掲載します。今回はその第2回です。ご一読ください。

2月末にしては暖かい日、嵐山から嵐電に乗り龍安寺に行き、それから市バスに乗り金閣寺に行きました。お寺巡りは趣味ではないですが、京都観光というとどうしてもお寺巡りが中心になります。金閣寺には、爆買いで有名な国の方々がたくさん来ていました。彼等のフィーリングには金閣寺のきらきら感が上手くフィットするのでしょう。

金閣寺見学の後、市バスに乗り大徳寺に行きました。大徳寺は、金閣寺に比べるとすごく地味な寺です。ですから、大徳寺には爆買いで有名な国の方々は居りませんでした。こんなことを言ってはいけないのでしょうが、大徳寺は外国人団体旅行者が居ないので落ち着いて見学できて良かったです。大徳寺は、京都紫野にある禅宗の大寺院で、境内は広く、勅使門から山門、仏殿、法堂、方丈と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備しています。

大徳寺の見学で印象に残ったことがふたつあります。それは大徳寺の山門と大徳寺納豆でした。

大徳寺の山門

仏教寺院は本来、山に建てられていたので、平地にあっても寺院の正門は 山門というそうです。大徳寺の山門は大きな二階建ての門で、私の目からすれば京都の大きな寺院にある山門と大差ないありふれた山門でした。そんな山門ですが、興味をそそられる歴史物語がありました。天正19年(1591年)2月28日、大名をしのぐほどの権威を持っていた茶の湯の大家・千利休が、豊臣秀吉から切腹を命じられ、自害しました。この切腹と二階建ての山門が大きく関係していたのです。当初、山門は一階建の門でしたが、千利休が援助して二階建ての門にしました。二階建ての門が完成すると大徳寺の住持であった古渓宗陳が、千利休に対する感謝の意を表するために千利休の木像を造り、それを山門の上に祀りました。この木像が切腹の命を発する引き金になりました。その理由は、秀吉が山門をくぐる時に、千利休像の下を歩く事になるからでした。秀吉はこのことに激怒し、千利休に対して切腹を申し渡すと同時にその木像を磔(はりつけ)にしたと言われています。しかし、天下人たる人物が木像のことに腹を立てて切腹を命じるとは思えません。秀吉が千利休に対し苦々しく思うことが多々あったのではないかと推測します。むしろ、切腹を命じる言いがかりとして木像事件を使ったと思います。

下衆の勘繰りに近いのですが、千利休は山門を寄進する程の金持ちだったと言うことにビックリしました。人の懐を詮索するなんて、やはり、私は下衆の性格の持主です。

大徳寺納豆

大徳寺境内の売店のおばさんから仕入れた情報です。

大徳寺納豆とは、我々が考える粘り気があり糸を引くような発酵食品ではないことは知っていましたが、むしろ甘納豆に近い食品と考えていました。しかし、甘納豆でもなかったのです。

大徳寺納豆は、煮た大豆に麹菌をまぶして塩水で発酵させ乾燥した食品でした。梅干しに近い食品でした。お茶請けや調味料として利用されるそうです。お坊さんが食べる食事での出汁では、鰹節、煮干しは殺生になるので使いません。使われる食材は、昆布、そして大徳寺納豆も登場します。

大徳寺見学の後、市バスで四条河原町に戻り、おばんざいの料理を楽しみ、先斗町をブラブラして宿に戻りました。

今日も冬の京都で非日常の経験が出来ました。そんな休日って嬉しいですね。

杜 祐祠さんの京都旅行(第1回)

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二条城と京都御所を旅して

ブログ記事の番外編として、杜 祐祠さんの最近の京都旅行のコラム記事(3回)を掲載します。杜 祐祠さんは、ある会計士のペンネームだそうです。今回はその第1回です。ご一読ください。

二条城

2016年2月に家内と京都に行きました。到着した日、京都駅で簡単に食事をしてからタクシーに乗り二条城に行きました。二条城のパンフレットによりますと、徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課して、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として慶長8年(1603年)に造営されたものだそうです。本丸は寛延3年(1750年)落雷により焼失して現在はありません。今、一般公開されているのは二の丸御殿です。本丸でなくても、部屋数33、畳800畳あまりの二の丸御殿の広さには圧倒されます。個人的に興味あることは、徳川幕府が大政奉還する慶応3年(1867年)までの間の260年余りの間に何日将軍は上洛して宿泊したのでしょう。あまり将軍が宿泊した形跡がうかがえません。もしかすると1年も滞在しなかったのかもしれません。

徳川家康は西日本の諸大名に絢爛豪華な二条城の築城を課して諸大名の財政にゆとりを持たせないことに、彼の二条城築城の本当の意図があったような気がします。

京都御所

次に京都御所に向かいました。二条城から2.5㎞のところに京都御所があります。事前に宮内庁に申し込みをしていたので京都御所を見学することが出来ました。京都御所は、その古来の内裏の形態を今日に保存している由緒あるもので、現在のものは安政2年(1855年)の造営されたものです。紫宸殿を始めとし、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿など平安時代以降の建築様式の移りかわりを外からつぶさに見ることができます。別の言い方をすれば、京都御所の室内を見ることは出来ません。建物の外からしか見学できないのです。

紫宸殿は、天皇の即位礼などの重要は儀式を執り行うもっとも格式の高い正殿です。明治天皇、大正天皇も紫宸殿で即位されました。

個人的に興味あったことは、紫宸殿を取り囲む回廊の色です。回廊は朱色で彩色されていました。押印の時に使う朱肉の色が朱色です。その色が回廊全体に彩られています。紫宸殿の回廊は、けばけばしいというよりおどろおどろしい感じがしました。インターネットで調べたら、朱色は魔力・災厄を防ぐ色、神様のお力を高める役割がある色でした。「朱色って、そんな色なのか!」と頭で理解出来ても、朱色のおどろおどろしい感じを自分の感性は受け入れることが出来ませんでした。

京都御所見学の後、市バスで知恩院前に行き一澤信三郎帆布でカジュアルな鞄を購入しました。一澤信三郎帆布のまわし者ではありませんが、ここの鞄はお薦めです。素材が帆布で、温もりが感じられます。それから祇園で京料理を堪能しました。美味しかったです。

冬の京都で非日常の経験が出来ました。そんな休日って嬉しいですね。

日本銀行副総裁 中曽 宏氏が2016年2月12日にニューヨークのジャパン・ソサエティで「金融政策と構造改革」について講演されています。当該講演の邦訳を添付します。

http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2016/data/ko160213a1.pdf

中曽 宏氏は「アベノミクスで掲げる2%の経済成長を達成させるには、実証的分析から日本の労働生産性の上昇率が3%必要である。だから、アベノミクスの目標である2%の経済成長を遂げるには、労働生産性の改善が鍵を握る」と力説しています。

経済成長するには、労働生産性の改善か、労働参加率のアップが必要です。上記労働生産性の上昇率3%は、現状の少子高齢化を前提としていますので、労働参加率のアップは想定していません。すべて労働生産性の改善に期待しています。

ここから中曽 宏氏の議論から離れます。ややブラックユーモアの議論になります。

1980年から2014年までの労働生産性のアップの実績値は1.6%です。今後の労働生産性のアップが従来通りの1.6%であったら、2%の経済成長を遂げるには労働参加率が0.4%アップする必要があります。講演録の添付資料によれば、次のふたつが満たされたら、労働参加率がアップ0.4%アップするそうです。

  1. 25歳から59歳の女性の労働参加率が、2040年までに概ね2010年時点でのスウェーデン並の水準になること
  2. 60歳以上の高齢者の労働参加率が、2040年までに健康な高齢者が全員労働参加すること

特に2番目の仮定は"あり得ないようであり得るかも知れない"仮定ですので恐ろしいです。つまり、「2040年までに健康な高齢者は全員労働参加すること」とは、80歳から85歳の高齢者の内60%は元気だから、「80歳から85歳の高齢者の60%は全員働きなさい」と言うメッセージです。

「アベノミクスの目標である2%の経済成長達成」って、洒落にならない怖い話かも知れません。悠々自適な老後を過ごすことは、夢物語みたいになりそうです。

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