杜 祐祠さんの京都旅行(第2回)

| コメント(0)

大徳寺を旅して

ブログ記事の番外編として、杜 祐祠さんの最近の京都旅行のコラム記事(連載3回)を掲載します。今回はその第2回です。ご一読ください。

2月末にしては暖かい日、嵐山から嵐電に乗り龍安寺に行き、それから市バスに乗り金閣寺に行きました。お寺巡りは趣味ではないですが、京都観光というとどうしてもお寺巡りが中心になります。金閣寺には、爆買いで有名な国の方々がたくさん来ていました。彼等のフィーリングには金閣寺のきらきら感が上手くフィットするのでしょう。

金閣寺見学の後、市バスに乗り大徳寺に行きました。大徳寺は、金閣寺に比べるとすごく地味な寺です。ですから、大徳寺には爆買いで有名な国の方々は居りませんでした。こんなことを言ってはいけないのでしょうが、大徳寺は外国人団体旅行者が居ないので落ち着いて見学できて良かったです。大徳寺は、京都紫野にある禅宗の大寺院で、境内は広く、勅使門から山門、仏殿、法堂、方丈と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備しています。

大徳寺の見学で印象に残ったことがふたつあります。それは大徳寺の山門と大徳寺納豆でした。

大徳寺の山門

仏教寺院は本来、山に建てられていたので、平地にあっても寺院の正門は 山門というそうです。大徳寺の山門は大きな二階建ての門で、私の目からすれば京都の大きな寺院にある山門と大差ないありふれた山門でした。そんな山門ですが、興味をそそられる歴史物語がありました。天正19年(1591年)2月28日、大名をしのぐほどの権威を持っていた茶の湯の大家・千利休が、豊臣秀吉から切腹を命じられ、自害しました。この切腹と二階建ての山門が大きく関係していたのです。当初、山門は一階建の門でしたが、千利休が援助して二階建ての門にしました。二階建ての門が完成すると大徳寺の住持であった古渓宗陳が、千利休に対する感謝の意を表するために千利休の木像を造り、それを山門の上に祀りました。この木像が切腹の命を発する引き金になりました。その理由は、秀吉が山門をくぐる時に、千利休像の下を歩く事になるからでした。秀吉はこのことに激怒し、千利休に対して切腹を申し渡すと同時にその木像を磔(はりつけ)にしたと言われています。しかし、天下人たる人物が木像のことに腹を立てて切腹を命じるとは思えません。秀吉が千利休に対し苦々しく思うことが多々あったのではないかと推測します。むしろ、切腹を命じる言いがかりとして木像事件を使ったと思います。

下衆の勘繰りに近いのですが、千利休は山門を寄進する程の金持ちだったと言うことにビックリしました。人の懐を詮索するなんて、やはり、私は下衆の性格の持主です。

大徳寺納豆

大徳寺境内の売店のおばさんから仕入れた情報です。

大徳寺納豆とは、我々が考える粘り気があり糸を引くような発酵食品ではないことは知っていましたが、むしろ甘納豆に近い食品と考えていました。しかし、甘納豆でもなかったのです。

大徳寺納豆は、煮た大豆に麹菌をまぶして塩水で発酵させ乾燥した食品でした。梅干しに近い食品でした。お茶請けや調味料として利用されるそうです。お坊さんが食べる食事での出汁では、鰹節、煮干しは殺生になるので使いません。使われる食材は、昆布、そして大徳寺納豆も登場します。

大徳寺見学の後、市バスで四条河原町に戻り、おばんざいの料理を楽しみ、先斗町をブラブラして宿に戻りました。

今日も冬の京都で非日常の経験が出来ました。そんな休日って嬉しいですね。

コメントする

アーカイブ

Powered by Movable Type 6.0.3