0060私見争見の最近の記事

2016年1月26日と27日に日経、経済教室に「軽減税率を考える」という2回連載の記事が載りました。関心ある事案でしたので当該記事を読みました。当該記事をPDFにしています。ご一読ください。

そこで、この記事に対して私見を述べさせてもらいます。26日は京都女子大学客員教授、橘木俊詔氏が執筆され(以下「橘木レポート」)、27日は東京大学教授、加藤淳子氏が執筆(以下「加藤レポート」)されました。

かなり独善的ですが、橘木レポートは情緒的であり、加藤レポートは大局的なものです。

橘木レポートから引用します。「額で評価すると軽減税率は逆進性対策として機能していないようにみえるかもしれないが、率で評価すると確実に逆進性の緩和に緩和している。額にこだわるかは人により異なるだろうが、筆者は額よりも率も優先して、軽減税率は逆進性の緩和に一定の効果があると結論づけている。」この議論は、確かに低所得者に目線を合わせているようですが、私は「木を見て森を見ない」議論と考えます。

消費税の逆進性の緩和に必要な低所得者対策は2,000億とも3,000億とも言われています。しかし、今回の消費増税に伴う軽減税率導入は高額所得者にも便益をあたえるバラマキのため、軽減税率導入による減収額は1兆円あまりと見込まれます。費用対効果という観点からみると軽減税率導入はナンセンスであることが明らかです。

加藤レポートから引用します。「軽減税率と異なり、給付は所得階層によってゼロから全額まで自由に減税の割合を変えられる。痛税感の緩和に配慮するなら、引き上げと同時に実施できる定額給付が最も適当だ。」私も同感です。そして、マイナンバーが導入されたので、合理的低所得者対策がとれる環境は整備されつつあります。

今回のブログ記事では、橘木レポート、加藤レポートの他の部分を触れていませんが、傾聴に値する部分が多いです。しかし、その傾聴に値する部分は政治に反映されていません。政治は"良薬、口に苦し"の政策は先送りし、選挙対策の政策を先行させます。これは、残念ながら税に関する我々の民度が低いことが原因と考えます。

日本国憲法第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

2「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

上記憲法条文より自衛権は放棄したと当初は考えられていました。文理解釈からすれば、自衛権は放棄したと読むのが自然です。しかし、自衛権は日本が国連加盟時に与えられました。そこで、鳩山一郎内閣(1954)での「自衛権の保有」、田中角栄内閣(1972)での「個別的自衛権の行使に限定」、鈴木善幸内閣(1981)での「集団的自衛権は保有するが、行使できない」の如く鳩山一郎内閣の時から、憲法の論理解釈(字句に囚われないで解釈)が始まり、その後は論理の拡大解釈で取り繕ってきたことが今日の問題を引き起こしています。国の最高法規である憲法を論理解釈しています。そのこと自体が大問題です。

現行憲法を盲目的に守ろうとする人々は、憲法を聖書のように思っています。しかし、憲法は聖書ではないのです。社会のパラダイムが変わったら、憲法も変えるべきです。

自衛権を認める立場にたてば、鳩山一郎内閣の時に憲法第9条は改正されるべきでした。護憲の名の下に戦争反対を叫び、しかし、憲法の論理解釈で自衛権を認めるというダブル・スタンダードに大きな矛盾があります。ダブル・スタンダードは解消すべきです。その解消の選択は、改憲するか護憲を貫くかです。これは国民の判断に委ねるべきと考えます。問題のひとつは、厳しすぎる憲法改正規定[i]にあります。

今の日本人で侵略戦争に賛成する人はいないと思います。そのような状況の中で戦争反対を叫ぶ人は、侵略戦争にも反対し、自衛のための防衛にも反対する人々です。

家族が殺されて自分の財産も自分の命も危うくなる事態になっても戦争反対の信念を貫けるのであれば護憲の立場を貫いて欲しいです。

家族の命を守るためにも、自分の財産を守るためにも自衛する必要があると考えるなら、自衛権の保持と行使が出来ることを憲法の条文に明確に書くべきと考えるでしょう。つまり改憲です。

今回の安保法案を多くの憲法学者が憲法違反であると言ってことは、憲法第9条を変えないでの自衛権の拡大解釈が、認められる限度を超えていると言っていると推測します。自衛権そのものを違憲であると言っているのではなく、本来、憲法において明記されるべき権利(自衛権)が、憲法において明記されないまま、その権利行使を認める立法に対して違憲と述べていると解釈しています。

私は侵略戦争には反対ですが、自衛権の行使は限定的ですが必要と考えます。そのような意図が反映されるように憲法が改正されることを望んでいます。



[i]日本国憲法第96条 「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」

2013年に英オックスフォード大学が発表した「コンピューター(ロボット化)の影響を受けやすい未来の仕事」のリポートは、702種類の仕事をコンピュターのよって代替される可能性の多寡を基準によって仕事のランキングをしています。そのランキングを一読しますと、単純・定型的な業務はコンピュターによって代替されますが、クリエイティブ・対人的な業務はコンピュターに代替され難い業務でした。

私の仕事に関係する業務を例にすると、CFO・税務アドバイザーはコンピュターに代替され難い仕事になっていました。一方、記帳代行業務・申告書作成業務はコンピュターによって代替される可能性の高い仕事になっております。

個人的には、記帳代行業務・申告書作成業務を単純作業と思いませんが、人工知能の発達が想像以上に急速進むとあながち非現実的分析とは思いません。現在、記帳代行業務・申告書作成業務に従事している人々は中間所得層に属していますが、それら業務がコンピュターによって代替されると、それらの人々はコンピュターに代替され難い業務にシフトせざる得なくなります。そのシフトの先は、高所得のサービス業(経営者、CFO、医者等)か低所得のサービス業(小学校の先生、聖職者、ケースワーカー、アスレチックトレーナー等)の何れかになります。つまり、中間所得層の減少に歯止めがかからず、社会が二極化していきます。

話題のトマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」の核心である資本収益率(r)が経済成長率(g)を常に上回っている故に、「富める者がますます富む」は日本の現状に当てはまらない分析と考えます。

むしろ、ITの発達が日本社会の二極化をもたらすのではないでしょうか

「格差」のイメージは「富める者はさらに富み、富が集中すること」です。ですから議論の中で格差という言葉を用いると、人は植付けられたイメージによって物事の判断をします。つまり「格差」という報道がなされると「高所得層」と「貧困層」との対比で問題の所在を考える傾向があります。ですから、「高所得層」への増税には拍手喝采します。

しかし、日本経済新聞(2015年3月2日)記事「ピケティさんの教え、日本への処方箋に違和感(核心)」でも述べている通り、日本が抱える問題は、「増加しつつある貧困層」と「社会的責任を認識しない富および所得の大半をしめる中間層」問題です。

社会学者の山田昌弘氏は、格差には、上位層がますます良くなる「上離れ」と、下位層がさらに落ち込む「底抜け」があるとし、このうち「底抜け」の増加が、社会に与える不安が大きくなるとしています。「底抜け」層は、収入が低い、努力が報われないと思う、未来に希望がもてないなどの特性を持つため、この層の増加は、社会の活力が喪失、犯罪の増加などにより社会が不安定化するとしています。

日本社会は、少数の「高所得層」、大多数の「中間層」と「貧困層」で構成されています。
そして、日本が抱える問題は、「貧困層」が増加している傾向があることです。この問題を的確に伝えることがマスコミの使命です。そうであれば、用語の定義を明確にすべきです。「格差」という言葉は、「富める者はさらに富み、富が集中すること」を意味するようになっています。格差という言葉から「貧しき者はさらに貧しくなり、社会の底辺に沈んでゆくこと」を連想する人はまず居ないと推測します。

「貧しき者はさらに貧しくなり、社会の底辺に沈んでゆく」社会現象を指摘する時に「格差」という言葉をマスコミが使用しないことが大事と考えます。私見ですが、「貧しき者はさらに貧しくなり、社会の底辺に沈んでゆく」社会現象を指摘する時、マスコミは「底抜け化」現象という用語の使用が適切と考えます。

的確な理解に資する言葉を使用することによって、はじめて日本の抱える問題を国民レベルで共有できると考えます。

トマ・ピケティ氏の「21世紀の資本」の本の核心は、次の不等式 r>g が成り立つことを実証的分析から説明したことです。不等式は、資本収益率(r)が経済成長率(g)を常に上回っていることを意味しています。つまり、富める者(主に金融資産を持つ者)がますます富むことになります。このフレーズを引用して格差の議論が再燃しています。格差の議論では、ピケティ氏の「トップ10%はだいたい国富の60%以上を所有している」という富の集中を想定しています。しかし、皮膚感官として「そんな格差が日本にあるのか?」と感じます。

そこで公表されているデータから定量的分析をしました。その結果、「ピケティ氏の考える格差は日本に存在しないです。むしろ、日本は、不等式 r>g が成り立つ純金融資産を保有する世帯層(「プラス層」と呼びます)とその不等式の埒外にある世帯層、つまり純金融資産がほとんどない世帯層(「マイナス層」と呼びます)の二層社会です。

野村総合研究所によると預貯金や株式、投資信託の資産から負債を差し引いた純金融資産が5億円を超える世帯の保有する純金融資産の合計は73兆円です。それは、全金融資産1,286兆円のわずか6%です。ビックリするような大金持ちは日本には居ないことをしめしています。

2015 二層社会 4.jpg次に純金融資産3,000万円未満の世帯の平均純金融資産の額は約1,300万円(=539兆円÷4,182万世帯)になります。つまり、どんな家庭でも貯蓄が約1,300万円あることになります。しかし、この数値は現実離れしています。そこで、「家計の金融行動に関する世論調査(二人以上世帯調査)」2014年を参考にしました。「家計の金融行動に関する世論調査」は日本銀行情報サービス局が事務局となって行っている調査です。調査は統計的手法を用いていますのです、サンプルとして選ばれた標本の結果をもって母集団(全世帯)を推定することは合理的と考えます。

「家計の金融行動に関する世論調査」によると、世帯の金融資産保有額の中央値は400万円でした。その意味することは、全世帯の半数(中央値まで)の金融資産保有額は400万円以下であることを意味しています。全世帯5,200万所帯(野村総合研究所による数値を利用)の半数2,600万所帯の金融資産保有額は400万円以下であると推定できます。その推定は"当たらずとも雖も遠からず"と考えます。

金融資産保有額は400万円を境にして、それ以上の層を「プラス層」とし、それ以下の層を「マイナス層」とすると二層化された日本社会が見えてきます。

2015 二層社会1.jpg

2015 二層社会 2.jpg

ふたつの表から、日本の世帯の半数は、金融資産を持たないその日暮らしの生活をしていることが明かです。

野村総合研究所による資料から判ることは、「プラス層」の中で金融資産保有をいちばん多く保有しているのは、富裕層ではなく、ミドルクラスの層です。富裕層と貧困層とを対比させる格差の議論は、日本では的外れです。実効ある政策のためには、「プラス層」の持つ金融資産、特にミドルクラスの財布に手を突っ込む必要があります。

私見ですが、そうするには、先ず、歳出にみられる穴の空いた桶状態を脱する必要があります。そのためには垂れ流しをストップさせるような財政規律の立て直しが必要です。

次に、重要なことはマイナス層は必ずしも貧困層を意味していません。年収10百万円の家庭でも上記仕分けの下では、マイナス層に入る家庭は少なくないと推測します。金融資産を持たなくても幸せな暮らしができる社会が理想です。ですから、社会のセーフティネットが完備していれば、「マイナス層」が増えていくことは好ましい傾向と考えます。

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