日曜礼拝

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聖日礼拝を毎日曜日午前10時30分より実施しています。神を信じるようになりたい!信仰を持ちたいと考えている方是非、参加して下さい。また、礼拝の後、簡単な食事を食べながら歓談の時を持っています。

今回は、日曜礼拝ではあまり語られない話です。それは、キリストを裏切ったユダが自殺する直前の行動の話です。彼の行動は、我々が大きな間違いを犯さないために大変示唆に富む話と考えます。該当する聖書の箇所を引用すます。

そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪【死刑】に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 それで、彼【ユダ】は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 (マタイの福音書第27章第3節から5節)

 

多分、ユダの考える救世主は、ローマ軍を追っ払ってくれる兵力を持った強い王を考えていたと想像されます。この考えは当時の多くのユダヤ人の考える救世主像と一致します。ユダは、おカネに汚い人間、つまり、非常に自己中心的な人間です。ユダは、王の側近になることで権力を握りたいと考えキリストと3年間寝食を共にしたのです。しかし、判ったことは、「キリストはユダの考える救世主ではなかった」ということです。王の側近にいることで権力を握りたいと考えていた彼の夢が瓦解してしまったのです。ユダがキリストを裏切った理由は、彼の夢が破れたからでしょう。自分の夢が破れた時、人は誰でも裏切る可能性があります。つまり、誰でもユダになってしまう可能性があるのです。

 

大事な人を裏切ったらユダのようになってしまうのでしょうか?しかし、「心配する必要はない!」です。地獄行きの切符を天国行きへの切符に乗り換えることが可能だからです。そのためには、次のふたつが答を用意してくれます。

1.        間違いに気付いたら、後悔ではなく、悔い改めることです。

「後悔」は、過去を悔やみ、過去を振り返り、過去に縛られた心の状態です(「あんなことやらなきゃ良かったのに・・・」と思うだけ、反省がないです)。一方、「悔い改め」は、自分の過ちの中から、何かを学び(反省があります)それを未来へとつなげる行動につながります。

2.        救いは、祭司長や長老ではなくキリストを求めることです。

引用した聖書の箇所の祭司長や長老は、聖職者の衣服を身に付けていますが、心は汚れているのです。キリストの衣服はボロですが、心を清いのです。間違った人に救いを求めてはいけないのです。

聖書を読んでいない人でも知っている非常に有名な話を取り上げます。それは「キリストが捕らえられた翌日、早朝の鶏が鳴く前に、ペテロが三度、キリストを知らない」と言う話です。該当する聖書の箇所を引用すます。

 

イエスは彼に言われた。「まことに、あなた(ペテロ)に告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなた(ペテロ)は三度、わたしを知らないと言います。」(マタイの福音書第26章第34節)

それからユダの裏切りによりキリストは、捕らえられます。ユダヤ教の祭司長達に扇動された民衆は、キリストに傍若無人の振る舞いをしている時、女中のひとりが来て言いました。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、?ペテロは、みなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言いました。次に「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」と言われました。それで、?ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言いました。別の者が「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言いました。すると?彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めました。するとすぐに、鶏が鳴いたのです。(マタイの福音書第26章第70節から74節)

 

ペテロはキリストを知らないと嘘をつきます。一度目の嘘は、みなの前で打ち消すだけです。二度目の嘘は、「誓って」と言っています。そして、三度目の嘘は、「のろいをかけて誓って」と言っています。呪いは、死をもたらします。それぐらいの大嘘をペテロはついたのです。いちど嘘をつくと、嘘は留まることがありません。

l         キリストが信頼したペテロが、ヒドイ嘘をついたのです。

l         キリストと寝食を共にしたペテロが嘘をついたのです。

l         キリストに対して大口をたたいていたペテロが嘘をついたのです。

l         キリストと死ぬことを厭わないと言っていたペテロが嘘をついたのです。

 

ところで、我々は、ペテロを責めることができるでしょうか?

「鶏が鳴く前に、ペテロが三度、キリストを知らない」の話は、そんな問いかけを我々にしているようです。

「小沢一郎議員のキリスト教批判」(20091119日の本ブログ記事)に対してアメリカ合衆国の大学教員をしておられる読者よりコメントいただきました。興味ある内容ですので当該コメントを本文でご紹介します。

ジャパンタイムス誌へのご投稿、拝見いたしました。とても勇気あるご行動と思います。キリストにある者として一言、お礼を申しあげたいと存じます。しかしながら、アメリカにおける(私の知る限り)この発言の波紋はあまり深刻ではないようです。小沢氏の発言は、キリスト教批判、というよりも、ご自身の素直な宗教観を語っただけ、という受け取り方が多数です。私自身、そう思いました。しかも、仏教をキリスト教、イスラム教と並べて比較、仏教が一番すぐれている、という発言の主旨でもあり、また、あえて仏教関係者の前での発言でしたから、単に政治的な、あまり深い意味のない発言に過ぎない、というように受け取られているようですね。

彼の発言そのものは確かにばかげていますし、日本の政治に携わる重要な方の発言としてはあまりにもあぜんとさせられる内容であることは確かです。私も正直のところガッカリし、かつ、かなりの衝撃を受けました。しかしながら、彼の発言は、日本におけるごく一般の方(クリスチャンではない方)の、ごく普通の、宗教に対する自然な見方、とも受け取れるのではないか?とも思えます。従いまして、小沢氏が謝罪するとも思えませんし、一般の方の受け取り方として、小沢氏がキリスト教信者や教会に対して謝罪する理由がある、とも(恐らく)思われないでしょう。もちろん、大変に残念ではありますけれども。

もちろん、それをすべて理解した上でのご投稿でもあったのでしょう。
キリストを信ずる者が絶対的少数である国家(日本)ならではのご苦労もさぞ多いことでしょう。お察しいたします。また、日々のご苦労、心より感謝をいたします。

ぜひ、聖書にありますように、bless those who curse you, pray for those who mistreat you. (Luke 6:28) この精神で進んで参りましょう。キリスト教は排他的ではない、ということの根源の理由をこれによって必ず示すことができる、と信じます。

ありがとうございました。

在主

ユダの裏切りによりイエスが捕らえられる直前のイエスは、もがき苦しみながら主への祈りをします。該当聖句を引用します。

l         それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、このをわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイの福音書第26章第39節)

l         イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬでしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(マタイの福音書第26章第40節)

 

何故、キリストは"杯"を飲み干す必要があるのでしょうか?キリストはその理由を知っています。それゆえ、キリストは祈りのなかでもがき苦しんだのです。当時のユダヤの人々は、常識として"杯"の意味を理解したと思います。しかし、旧約聖書に精通していない者にとっては、多分、チンプンカンプンな話と思います。旧約聖書で"杯"が記述されている箇所のいくつかを引用します。その聖句がヒントとなります。

l         あなたは栄光よりも恥で満ち足りている。あなたも飲んで、陽の皮を見せよ。主の右の手のは、あなたの上に巡って来て、恥があなたの栄光をおおう(ハバクク書第2章第16節)。

l         さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りのを飲み、よろめかす大を飲み干した(イザヤ書第51章第17節)。

l         主は、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らのへの分け前となろう(詩篇第11章第6)。【火、硫黄、燃える風は、神が人に与える裁きを意味しています】

l         神である主はこう仰せられる。あなたは姉の、深くて大きいを飲み、物笑いとなり、あざけりとなる。このはあふれるほどに満ちている(エゼキエル書第23章第32節。

 

引用した旧約聖書の意味する杯は、人の犯す罪が盛られる器が杯です。お酒がそそがれている杯ではないのです。マタイの福音書第26章第39節、第40節での杯は、旧約聖書で言っている人の罪で山盛りになった杯なのです。その杯を飲むことの意味することは、容易に判ると思います。キリストは、我々の罪を自分の身をもって贖いました。それによって我々は救われたのです。

聖餐式について

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「過越し(Passover)」は、ユダヤの民がエジプトの地で奴隷として苦役を強いられた時に神が守ってくれたことを忘れないための行事です。ユダヤの民にとって非常に大事な行事です。「過越し」とは、生贄(いけにえ)にした子羊の血をユダヤの民の家の戸口に付けることで、その目印ある家は、災いから神が守ってくれたことが由来となっています。生贄になる子羊は、完全無欠の子羊である必要があります。それから、生贄となった子羊の肉はユダヤの民の大事な食料になっていました。子羊の乾燥肉は、ユダヤの民がエジプトから脱出する時、彼等の命をつないだものでもありました(旧約聖書「出エジプト」を参照してください)。

キリストが「過越し」の時に、捕らえられたこと、そして、キリストが十字架の上で処刑されたことは、重要な意味を持ちます。キリストは、完全無欠な人です。その彼が処刑されたことは、まさに子羊が生贄にされたと同じ意味を持ちます。我々のために命を捧げたキリストを忘れないために行われる行事が、聖餐式(せいさんしき)です。ワインは、彼の血を現し、パンは彼の肉体を現しています。聖餐式の意味を理解すると、キリストの愛を感じることができるでしょう!

あけましておめでとう!

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あけましておめでとうございます。

13日の日曜礼拝の後、参加者は高橋悦子姉妹が差し入れしてくれたお汁粉を楽しみました。三が日は、お雑煮中心の家庭が多いと思います。でも、悦子さんの作ったお汁粉はいつ食べても美味しいです。

 

神は霊なので目には見えません。しかし、自然のなりたち、季節の移り変わり、小さな動物、植物、色彩を見るとき、たしかな神のご臨在を感じます。

そして完璧です。私たち人間は、忙しく生活していると、何でも当たり前となって、その中から感謝の気持ちは生まれません。実は当たり前ではなく私たちは恵みの中に生きているのです。これは199112月の私たち家族への神の恵みとあわれみの記録(証し)です。

 

 同年124日、大学2年の娘が病に倒れました。診断は脳腫瘍、この宣告は私をパニックに落とし入れ、言葉も出ない状態でした。医師は「どうしたらよいかわからない、ともかくやるとしたら放射線治療をして見るしか方法はない。」ということでした。脳の中心部分で腫瘍が広がった状態でした。娘は歩くことも出来ず、今、食べたことも憶えられない状態でした。

 

 パニック状態の私(尚子)に夫(悦蔵)が言いました。「神様に祈ろう・・」実は私たち夫婦は洗礼を受けて16ケ月の新米クリスチャンでした。「神様どうか放射線を必要なところに必要な量だけを当てるようにしてください。イエス・キリストを信じてお祈りします。アーメン」そして病室の壁に御言葉をかかげました。

 「わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊が命を得、また、それを豊かに持つためです」(ヨハネの福音書第10章第10節)

 

私は病室の床にひれ伏して泣きながら祈り、家に洗濯をしに行く道すがらも祈り、そして、どんな時でも祈りました。「・・・彼(イエス・キリスト)は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちのとがのために砕かれた。彼へのこらしめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた。」(イザヤ書第53章第5節)神様どうかこの約束の御言葉にあずかれますように、私たちの娘に、家族に、あわれみを下さいますように。

 

 夜に病室で娘の隣の補助ベッドで寝ていた時に、夢なのかまぼろしなのか今でも区別がつかないのですが、病室の白い壁に等身大のイエス・キリストが現れました。傷だらけで、十字架上でいばらの冠をつけ、ゆれると血がしたたり流れている、顔は見えないけれど頭のてっぺんから足の先まで憶えている。血が飛び散ってくるのに、なぜか感動と安心感でいっぱいになったのです。私は声をふりしぼって言いました。

 

「わかりました、主よ、あなたが私たちのために、娘のために、すべての傷を、罪を負って下さったのですね」

 

 絶対に忘れない ! という思いで時計を見ました。午前420分でした。驚いたことに、その日は1224日でした。思わぬことに夕方クリスマス賛美集会が病院のロビーで行われたのです。

 

 何も先のことなどわからないのに、なんだか嬉しい、喜びの感情がわいてきました。

2?3日して娘の排尿の袋の中に黒っぽい血液のようなものが沢山でました。その次の日には白い繊維状の細いものが沢山出ていました。看護師は膀胱炎になったのではないかと、あわてていました。けれども何も痛みはなく、不思議な現象でした。ついにトイレも自分で出来、歩けるようになりました。

 

 医師はびっくりして「CTをとってみよう」といいました。「こんなことってあるんだね、きっと神様でしょう・・・」と医師が認めたのです。腫瘍がなくなっていたのです。

 2月に退院し大学にも4月から親同伴で出席し、ついに卒業も出来ました。

 

 神は娘の身体だけでなく、心にも及び、イエス・キリストを信じる信仰を与えられました。洗礼を受け教会の礼拝賛美の伴奏の奉仕をすることになりました。

 

 それから13年間、私たちとの楽しい会話と音楽会、旅行、教会の人たちとの交わり、支え、思い出を沢山残して、娘は、父なる神のもとに帰っていきました。

死は誰にでも必ずやってきますが、人生の終着点ではなく、新しい世界・・永遠なるイエス・キリストとともに生きる・・・の入り口です。

 

 神は信じた者の心、神を賛美する心の中に住まわれます。信じた者の集まりが教会です。建物ではありません。私たちの教会は人数はまだ少ないですが、実にパワフルです。神は弱さの中に、へりくだったところに喜んで来てくださるからです。

 

 アーメン

 

十字架の意味とは!?

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聖書では、「人は生まれながらにして罪人だ」と言います。しかし、自分は人殺しもしていない!物を盗むことをしたこともない!そんな自分が罪人であるなんて・・・と考える人が多いと思います。しかし、自分の都合の悪い時、気分を害している時、だれでも人への思いやりが足りなくなります。身の危険がある時、つい見て見ぬふりをしてしまいます。聖書で言う罪とは、大罪のみならず、ちょっとしたことも罪なのです。また、赤ん坊に悪いことを教えなくても覚えます。人とはそういうものなのです。ですから、人は生まれながらにして足りない部分があります。つまり負(マイナス)を背負っています。マイナスは、"一"で示されます。

イエスは我々を救うために、天より地上に降りてきました。天より地上に降りた光景は、"|"のようです。我々のマイナス"一"は神の力"|"によりはじめてプラス"+"に転じます。このことより、十字架の意味が判ると思います。最後に、コリント人への手紙第118節を引用します。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

クリスマスです!

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クリスマスです!

神のみ子はこよいしも(クリックするとU-Tubeに収められたこの賛美歌が聴けます)を聴きながら、主イエス・キリストを賛美しましょう!

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