神は霊なので目には見えません。しかし、自然のなりたち、季節の移り変わり、小さな動物、植物、色彩を見るとき、たしかな神のご臨在を感じます。
そして完璧です。私たち人間は、忙しく生活していると、何でも当たり前となって、その中から感謝の気持ちは生まれません。実は当たり前ではなく私たちは恵みの中に生きているのです。これは1991年12月の私たち家族への神の恵みとあわれみの記録(証し)です。
同年12月4日、大学2年の娘が病に倒れました。診断は脳腫瘍、この宣告は私をパニックに落とし入れ、言葉も出ない状態でした。医師は「どうしたらよいかわからない、ともかくやるとしたら放射線治療をして見るしか方法はない。」ということでした。脳の中心部分で腫瘍が広がった状態でした。娘は歩くことも出来ず、今、食べたことも憶えられない状態でした。
パニック状態の私(尚子)に夫(悦蔵)が言いました。「神様に祈ろう・・」実は私たち夫婦は洗礼を受けて1年6ケ月の新米クリスチャンでした。「神様どうか放射線を必要なところに必要な量だけを当てるようにしてください。イエス・キリストを信じてお祈りします。アーメン」そして病室の壁に御言葉をかかげました。
「わたし(イエス・キリスト)が来たのは、羊が命を得、また、それを豊かに持つためです」(ヨハネの福音書第10章第10節)
私は病室の床にひれ伏して泣きながら祈り、家に洗濯をしに行く道すがらも祈り、そして、どんな時でも祈りました。「・・・彼(イエス・キリスト)は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちのとがのために砕かれた。彼へのこらしめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた。」(イザヤ書第53章第5節)神様どうかこの約束の御言葉にあずかれますように、私たちの娘に、家族に、あわれみを下さいますように。
夜に病室で娘の隣の補助ベッドで寝ていた時に、夢なのかまぼろしなのか今でも区別がつかないのですが、病室の白い壁に等身大のイエス・キリストが現れました。傷だらけで、十字架上でいばらの冠をつけ、ゆれると血がしたたり流れている、顔は見えないけれど頭のてっぺんから足の先まで憶えている。血が飛び散ってくるのに、なぜか感動と安心感でいっぱいになったのです。私は声をふりしぼって言いました。
「わかりました、主よ、あなたが私たちのために、娘のために、すべての傷を、罪を負って下さったのですね」
絶対に忘れない ! という思いで時計を見ました。午前4時20分でした。驚いたことに、その日は12月24日でした。思わぬことに夕方クリスマス賛美集会が病院のロビーで行われたのです。
何も先のことなどわからないのに、なんだか嬉しい、喜びの感情がわいてきました。
2?3日して娘の排尿の袋の中に黒っぽい血液のようなものが沢山でました。その次の日には白い繊維状の細いものが沢山出ていました。看護師は膀胱炎になったのではないかと、あわてていました。けれども何も痛みはなく、不思議な現象でした。ついにトイレも自分で出来、歩けるようになりました。
医師はびっくりして「CTをとってみよう」といいました。「こんなことってあるんだね、きっと神様でしょう・・・」と医師が認めたのです。腫瘍がなくなっていたのです。
2月に退院し大学にも4月から親同伴で出席し、ついに卒業も出来ました。
神は娘の身体だけでなく、心にも及び、イエス・キリストを信じる信仰を与えられました。洗礼を受け教会の礼拝賛美の伴奏の奉仕をすることになりました。
それから13年間、私たちとの楽しい会話と音楽会、旅行、教会の人たちとの交わり、支え、思い出を沢山残して、娘は、父なる神のもとに帰っていきました。
死は誰にでも必ずやってきますが、人生の終着点ではなく、新しい世界・・永遠なるイエス・キリストとともに生きる・・・の入り口です。
神は信じた者の心、神を賛美する心の中に住まわれます。信じた者の集まりが教会です。建物ではありません。私たちの教会は人数はまだ少ないですが、実にパワフルです。神は弱さの中に、へりくだったところに喜んで来てくださるからです。
アーメン

Our God is a wonderful and awesome God. Praise the name of Jesus.