2010年2月アーカイブ

今回は、日曜礼拝ではあまり語られない話です。それは、キリストを裏切ったユダが自殺する直前の行動の話です。彼の行動は、我々が大きな間違いを犯さないために大変示唆に富む話と考えます。該当する聖書の箇所を引用すます。

そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪【死刑】に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 それで、彼【ユダ】は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 (マタイの福音書第27章第3節から5節)

 

多分、ユダの考える救世主は、ローマ軍を追っ払ってくれる兵力を持った強い王を考えていたと想像されます。この考えは当時の多くのユダヤ人の考える救世主像と一致します。ユダは、おカネに汚い人間、つまり、非常に自己中心的な人間です。ユダは、王の側近になることで権力を握りたいと考えキリストと3年間寝食を共にしたのです。しかし、判ったことは、「キリストはユダの考える救世主ではなかった」ということです。王の側近にいることで権力を握りたいと考えていた彼の夢が瓦解してしまったのです。ユダがキリストを裏切った理由は、彼の夢が破れたからでしょう。自分の夢が破れた時、人は誰でも裏切る可能性があります。つまり、誰でもユダになってしまう可能性があるのです。

 

大事な人を裏切ったらユダのようになってしまうのでしょうか?しかし、「心配する必要はない!」です。地獄行きの切符を天国行きへの切符に乗り換えることが可能だからです。そのためには、次のふたつが答を用意してくれます。

1.        間違いに気付いたら、後悔ではなく、悔い改めることです。

「後悔」は、過去を悔やみ、過去を振り返り、過去に縛られた心の状態です(「あんなことやらなきゃ良かったのに・・・」と思うだけ、反省がないです)。一方、「悔い改め」は、自分の過ちの中から、何かを学び(反省があります)それを未来へとつなげる行動につながります。

2.        救いは、祭司長や長老ではなくキリストを求めることです。

引用した聖書の箇所の祭司長や長老は、聖職者の衣服を身に付けていますが、心は汚れているのです。キリストの衣服はボロですが、心を清いのです。間違った人に救いを求めてはいけないのです。

聖書を読んでいない人でも知っている非常に有名な話を取り上げます。それは「キリストが捕らえられた翌日、早朝の鶏が鳴く前に、ペテロが三度、キリストを知らない」と言う話です。該当する聖書の箇所を引用すます。

 

イエスは彼に言われた。「まことに、あなた(ペテロ)に告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなた(ペテロ)は三度、わたしを知らないと言います。」(マタイの福音書第26章第34節)

それからユダの裏切りによりキリストは、捕らえられます。ユダヤ教の祭司長達に扇動された民衆は、キリストに傍若無人の振る舞いをしている時、女中のひとりが来て言いました。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、?ペテロは、みなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言いました。次に「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」と言われました。それで、?ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言いました。別の者が「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言いました。すると?彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めました。するとすぐに、鶏が鳴いたのです。(マタイの福音書第26章第70節から74節)

 

ペテロはキリストを知らないと嘘をつきます。一度目の嘘は、みなの前で打ち消すだけです。二度目の嘘は、「誓って」と言っています。そして、三度目の嘘は、「のろいをかけて誓って」と言っています。呪いは、死をもたらします。それぐらいの大嘘をペテロはついたのです。いちど嘘をつくと、嘘は留まることがありません。

l         キリストが信頼したペテロが、ヒドイ嘘をついたのです。

l         キリストと寝食を共にしたペテロが嘘をついたのです。

l         キリストに対して大口をたたいていたペテロが嘘をついたのです。

l         キリストと死ぬことを厭わないと言っていたペテロが嘘をついたのです。

 

ところで、我々は、ペテロを責めることができるでしょうか?

「鶏が鳴く前に、ペテロが三度、キリストを知らない」の話は、そんな問いかけを我々にしているようです。

「小沢一郎議員のキリスト教批判」(20091119日の本ブログ記事)に対してアメリカ合衆国の大学教員をしておられる読者よりコメントいただきました。興味ある内容ですので当該コメントを本文でご紹介します。

ジャパンタイムス誌へのご投稿、拝見いたしました。とても勇気あるご行動と思います。キリストにある者として一言、お礼を申しあげたいと存じます。しかしながら、アメリカにおける(私の知る限り)この発言の波紋はあまり深刻ではないようです。小沢氏の発言は、キリスト教批判、というよりも、ご自身の素直な宗教観を語っただけ、という受け取り方が多数です。私自身、そう思いました。しかも、仏教をキリスト教、イスラム教と並べて比較、仏教が一番すぐれている、という発言の主旨でもあり、また、あえて仏教関係者の前での発言でしたから、単に政治的な、あまり深い意味のない発言に過ぎない、というように受け取られているようですね。

彼の発言そのものは確かにばかげていますし、日本の政治に携わる重要な方の発言としてはあまりにもあぜんとさせられる内容であることは確かです。私も正直のところガッカリし、かつ、かなりの衝撃を受けました。しかしながら、彼の発言は、日本におけるごく一般の方(クリスチャンではない方)の、ごく普通の、宗教に対する自然な見方、とも受け取れるのではないか?とも思えます。従いまして、小沢氏が謝罪するとも思えませんし、一般の方の受け取り方として、小沢氏がキリスト教信者や教会に対して謝罪する理由がある、とも(恐らく)思われないでしょう。もちろん、大変に残念ではありますけれども。

もちろん、それをすべて理解した上でのご投稿でもあったのでしょう。
キリストを信ずる者が絶対的少数である国家(日本)ならではのご苦労もさぞ多いことでしょう。お察しいたします。また、日々のご苦労、心より感謝をいたします。

ぜひ、聖書にありますように、bless those who curse you, pray for those who mistreat you. (Luke 6:28) この精神で進んで参りましょう。キリスト教は排他的ではない、ということの根源の理由をこれによって必ず示すことができる、と信じます。

ありがとうございました。

在主

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