キリストを裏切ったユダから学ぶこと

| コメント(0) | トラックバック(0)

今回は、日曜礼拝ではあまり語られない話です。それは、キリストを裏切ったユダが自殺する直前の行動の話です。彼の行動は、我々が大きな間違いを犯さないために大変示唆に富む話と考えます。該当する聖書の箇所を引用すます。

そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪【死刑】に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 それで、彼【ユダ】は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 (マタイの福音書第27章第3節から5節)

 

多分、ユダの考える救世主は、ローマ軍を追っ払ってくれる兵力を持った強い王を考えていたと想像されます。この考えは当時の多くのユダヤ人の考える救世主像と一致します。ユダは、おカネに汚い人間、つまり、非常に自己中心的な人間です。ユダは、王の側近になることで権力を握りたいと考えキリストと3年間寝食を共にしたのです。しかし、判ったことは、「キリストはユダの考える救世主ではなかった」ということです。王の側近にいることで権力を握りたいと考えていた彼の夢が瓦解してしまったのです。ユダがキリストを裏切った理由は、彼の夢が破れたからでしょう。自分の夢が破れた時、人は誰でも裏切る可能性があります。つまり、誰でもユダになってしまう可能性があるのです。

 

大事な人を裏切ったらユダのようになってしまうのでしょうか?しかし、「心配する必要はない!」です。地獄行きの切符を天国行きへの切符に乗り換えることが可能だからです。そのためには、次のふたつが答を用意してくれます。

1.        間違いに気付いたら、後悔ではなく、悔い改めることです。

「後悔」は、過去を悔やみ、過去を振り返り、過去に縛られた心の状態です(「あんなことやらなきゃ良かったのに・・・」と思うだけ、反省がないです)。一方、「悔い改め」は、自分の過ちの中から、何かを学び(反省があります)それを未来へとつなげる行動につながります。

2.        救いは、祭司長や長老ではなくキリストを求めることです。

引用した聖書の箇所の祭司長や長老は、聖職者の衣服を身に付けていますが、心は汚れているのです。キリストの衣服はボロですが、心を清いのです。間違った人に救いを求めてはいけないのです。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.muratatax.com/mt-tb.cgi/812

コメントする

    follow me on Twitter

    このブログ記事について

    このページは、村田 守弘が2010年2月28日 19:08に書いたブログ記事です。

    ひとつ前のブログ記事は「「鶏が鳴く前に、三度、キリストを知らない」と言うペテロの話」です。

    次のブログ記事は「ピラトの妻から学ぶこと!」です。

    最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

    カテゴリ

    ウェブページ

    Powered by Movable Type 4.22-ja