本年の「復活の主日」は4月4日です。旧約聖書からキリストを見てみます。
イザヤ書は、イエスの時代から約700年前に書かれたものです。その中の旧約聖書イザヤ書53章は、キリスト(救世主)が如何に我々の目の前に現れるかを予言したものです。イザヤ書53章が予言した人物(彼)の部分をキリストと置き換えると、当に新約聖書のマタイの福音書27章、あるいはルカの福音書23章を読んでいるようです。ここにイザヤ書53章を引用します。
彼=キリストは主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼=キリストには、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼=キリストを尊ばなかった。 まことに、彼=キリストは私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼=キリストは罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼=キリストは、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼=キリストへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼=キリストの打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼=キリストに負わせた。彼=キリストは痛めつけられた。彼=キリストは苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼=キリストは口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼=キリストは取り去られた。彼=キリストの時代の者で、だれが思ったことだろう。彼=キリストがわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼=キリストの墓は悪者どもとともに設けられ、彼=キリストは富む者とともに葬られた。彼=キリストは暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼=キリストを砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼=キリストが、自分のいのちを罪過のための生贄とするなら、彼=キリストは末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼=キリストは、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しい下部=キリストは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼=キリストがになう。 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼=キリストに分け与え、彼=キリストは強者たちを分捕り物として分かちとる。彼=キリストが自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼=キリストは多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
